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おおいなる雑記
偉大な雑記でなく、雑記はなはだしい雑記の意。
ここ数週間、思い熄まないでいて、誰かにつたえたくてここにしるします。
市川海老蔵と和の世界で、海老蔵さんの平家物語の朗読がありました。それが、契機となって。うっすらと周りで渦巻いていた思考がひとつところにあつまりきたった感があります。
ありありと、目の前に、頭に浮かぶ情景。
なぜなのだろう、ここにはないのに、なぜ、浮かぶのだろう、その時代の細かな装束、本当の地形などは知らないからそのままは想像していない、けれど、情景が光景がうかぶ。
なぜだろう、なぜないのに目の前とこころにあるのだろう。
平家物語の臨場感、人の躍動感にではなく、その気づいたことに、わたしは、涙がにじむ。
ものがたり。
小説や、過去の話、それから、今自分の考えていることも、自分が想像している、という、同等の、同質の、ものがたりである、と最近おもいおよび、でも、そのものがたりと、自分の考えているものがたりは違う、それは何かとかんがえたら、自分に関わってくるかどうか、自分に利害がかかってくる気がするかどうか、だと。無関係におもい描くか、関係性の中でおもい悩むか。
これもふと。人は、何かを生み出す、なにもかもうみだされた中に営みが成り立っている。
ほかのいきものは、有る中で在る。人は、食べ物も、作る、そして多大な多大な部分、を、それはもはや部分ではないけれど、生み出した中に囲まれ生活している。目の前にある紙くずだって、ビニール一枚だって、人が。
本棚を眺めると、小説や着物の本や画集やそれらがたくさん並ばっている。人が考えたこと生み出したことが塊りのごとく此処にある。
胸が詰まる。
何もかもで胸がつまる。
なににだろう。ずっとずっとここにありつづけてきたのに、いまさら、いまさらにきづき、そのきづいたことの大きさに、おおきさに胸がとどかなくて追いつかなくて、そのおおきさが胸を締め付ける。
人って。
論理的な議論も、人との良いとおもうことの意見の相違も、どこにもその正邪の実態はなく、人の頭の中、こころの中にしかない、それでも、それがあたかも空間を共有しているかのように、しっかりと成り立っている。
かんがえてみれば、おどろく。
どこにもないのに、しっかりと、成り立っている。どこにも規則などないのに、ひととのあいだで、しらない呼吸のうちに、ある、と、思い成っている。ことば、こころ。
なんか、もう、そのことが、今、たまらなくたまらないのです。
ないのにある。あってあふれている。
人とその身体や、物、ほかのものものはここにある。生きたり、置かれたり、そこにある。
人がかんがえていることはどこにあるのだろう。
わたしは、なにに、心居竦ませ、ちぢこまらせ、くるしがっているのだろう。
自分も考えている、思っている、おなじように、人もかんがえている、おもっている。どこで、どこに。
なんでわたしは。
つまりわたしは、いつでも、つまるところ、なんていうのでしょう、透けるように、なんということもないように、むねが息澄んだように、いたいのだといつも環ってくる。
ことばを伝える
ことばが届く
言葉が苦しい。何もおもいたくない。
でもこの詰まりづく心胸が、なにか次の言葉をもとめている強力な呼び声であるとおもってる。
だから、見つめて考える。
そして実は私の遊び蔓でもある。自分に没頭するの遊びだからね(結局たのしいのね!)。
お腹すきました(笑)。御飯まだかな~。
しかしまだ胸がわだかまっている。
はやくぱっと鮮明にしてしまいたい!
文楽/文化/着物/本読み/落書きすること
●画の影響・養分●
文楽/江戸川乱歩/宝塚/歌舞伎/日舞/着物/和装/沢田研二/抒情画・挿絵(高畠華宵、小林嘉一、小村雪岱他)/水彩画(永山裕子、醍醐芳晴他)/漫画(由貴香織里、立川めぐみ、竹内直子他)/ネットで出逢う絵描きさん達