[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
なんてすてきなすてきな催し物なのでしょう。
神楽坂一帯を江戸に!というのが主旨、のようで、寺境内での和楽器演奏や唄、和楽器(三味線、琵琶、琴、雅楽、長唄などなど)の街角ライブ、散策しながらのスタンプラリー、新内流し、が、神楽坂にみちる!!
たのしかったすてきだった!!!
いちばん感銘をですね、うけてしきりだったのは、そういう邦楽と人が垣根のない、ただただ一緒にある、という空気と姿です。
うれしかったなぁ。
どうしても、邦楽、というと、敷居が高いだったり敬遠される場所にある、と当の日本人が思っている気が(私だけでしょうか)していますが、それがここにはなく、こうやってこういうところから溝が縮まったり、生活の中での伝統芸能の濃度が高くなってくれたら素敵だなぁなんて。
それはそれとして。
とにかく楽しかった!
路上ライブ風に、演出の激しく面白い三味線(肩車しながら弾く!)とか、雅楽の路上演奏なんてそもそも斬新!とか、琵琶法師はこれこそそもそももとはこうして道で琵琶法師が弾き語りしていたんだろうなぁと彷彿としたり、スタンプラリーでは、このお蔭で一日ではここまで足を踏み入れないだろうという塩梅に露地散策ができたり(途中目印の幟が立っていて、それがまた宝探しのようで)などなどなど…。雅楽は、童謡も吹いてくれて、あと実際に演奏する前の練習方法も教えてくれました(言葉で、音をとるんです。えっと、チーローハー…とか。音と言葉。それをすごく考えさせられました)。
新内流しも風情!! 新内節の三味線は、あえて言えば静かな三味線。かきならさず、絃も撥も音をたてず、音のみを零す、というくらいの。それが三人連れで、露地裏を、チン、トン、と歩く。風情~~~。
スタンプラリーは、頑張って六つ全部集めて景品貰いました(笑)。手拭い! 個人的に手拭いだけは、極力物を増やさないようにとしている中、物欲のまま集めてもいいひとつにしています…。数量限定で、この手拭いは自慢してもいいわよね!(笑)
こんな具合に、うれしたのしの神楽坂でしたが、何より、街が、人が、いいとおもったのです。ぜんぜん齷齪していない。そこに集まる人たちも。静かで、追いたてず、甘くて澄んだ水のような一角だとおもいました。もちろん、賑やかなんですよ、でも、こう、落ち着いている。
ほんとう、うれしい空気をすってきました。
県内に人形浄瑠璃の五座があると知り、今日そのうちのひとつへお邪魔させて頂きました。
和気あいあい…! もう、ほんとう、居心地良く居座らせて頂きました。
文楽で、舞台を見て聞いて、ときに講習会などに足を運び太夫、三味線、人形のそれぞれの遣り方を直接聞いたりはしていましたが、生で、舞台になるまでを見るのは初めてで、これは、とても面白く、興味深くありました。
人形を遣うことももちろん、演じる(遣う)って、大変なことだ…と。とにかく新鮮で、つくりあげる、という原点を見た気がしました。そう、つくりあげる。舞台、となると、それが為されて(成されて)いることそのものは、気にもとめず、当たり前に受けいれてしまうけれど、そして自分にとってその真価を感じたり判じたりに始終しますが、そもそも、そこになるまでの人の手、は、なんと楽しいことでしょう。
自分がやる側になったらまたちがう感覚になるとおもいますが。
たのしかった!
十一月一日は、「古典の日」だそうです。
「『古典の日』は源氏物語千年紀を記念して2008年11月1日に京都で宣言され、11月1日が『古典の日』として、国会で法律として制定されました」
だそうです!!
ところどころで、それにちなんで公演が開催されているようで、お祭り根性で、何かに参加しておかねばと、「日本舞踊と邦楽による 道成寺の世界」に行ってきたのでした。
道成寺、もとは法華経(…だった…はず)の説話に端を発して、浄瑠璃、文楽、歌舞伎、舞踊に形や内容を変えながら受け継がれてきた物語。
九月の文楽公演で「日高川入相花王」(これも道成寺もの)を見ました。
点と点が、線と線で繋がるたのしさ。
を、今、気持ちよく噛み締めています。
前の日記でも触れましたが、どれもこれも、独立して存在しているのでなく、影響し影響され脈々綿々とつながり合って成り立っている。だんだんにそれを知る。
たンのしい~!!!
今回は
舞踊・長唄 娘道成寺
邦楽・新内 日高川
舞踊・荻江節 鐘の岬
眠いので(苦笑)ざっと感想。
娘道成寺の市川ぼたんさんがすぅっごく綺麗で綺麗で。衣装もうつくしく。清い空気を吸いました。
新内節! 私一度聞いてから新内が好きになってしまいまして。三味線の、音をたてずに弾く音、弾き方が(矛盾してますが)すごくたまらぬです。本日も気持ちよくききました。
荻江節、女性だけで唄うのですね! 男性とは耳ざわりがまたちがいますよね。ころころと高音で、気持ちが澄むようです。
女流義太夫を聴いて以来、耳と身体に変革が起こったような、そんなようなようなような、気がします。
点と点、といえば。
舞台に行けばもらえるチラシ。これがまた次へ、知らない空間へ旅立つ足がかりになる!!! ネットで上手く回れば手に入る情報なのかもしれませんが、知れないものもあり。
「神楽坂まち舞台 大江戸めぐり」、これは非常に気になるお祭り!! 伝統芸能街角ライブ、お座敷遊びなど、街一帯が大江戸風情になるようならしい。これはぜひ賞味したし…!
漁ってから、いえ、明後日からまた大阪へ(まさに漁りづくしの秋)。文楽公演に行って参ります。まだ予定の立っていない(空き時間にいい舞台が見つかっていない)日もあり、行くまで探す楽しみを味わいたいと思います。何があるかしら~。
竹本駒之助さんと鶴澤津賀寿さんの義太夫を聴いてきました。
語り終えお二人が袖に入られてから、場内の感嘆と興奮がありありと。七月の大阪文楽公演よろしくお隣の方と想い伝え合いしていると、涙がでてきてしまったのでした。
おどろきました、感情は高まってはいたけれど、そこまでではなく。どちらかというと、誰かの不幸にふいを衝かれてこみあげてしまう、その在り様に近かったようなそうであるようなないような。
気持ちや思考の知覚じゃなく、体の方が響き揺さぶられいたのであろうかしらと思いました。
(それに語り、三味線のこの声音、音を真ん前で聴いたという贅沢)。
で、ちょいと日常でくしゃくしゃむしゃしていた(笑)のですが、それがさっぱり消えていた! あらいながされていた!!
今月半ば、「八犬伝を聴く」で長唄、常磐津、新内、筑前琵琶、と聴き満たされたときも、非常にすっきりしていて、わたしの鬱屈解消方法は浄瑠璃聞き浴びる、が最適かもしれないとおもいました(笑)。
それで…
どんどんつながっていく面白さったら。
劇場・公演に行けば、そこやそれに関連するチラシがもらえる。どんどん広がる芸能の世界。
女流義太夫公演がいくつもあり、その劇場を検索したら、なんと!!!
お江戸日本橋亭
なるところの、その文句が
~落語芸術協会の「定席」を始め、講談・浪曲、新内・小唄・長唄・義太夫などの伝統芸能を体感できます云々。
なにそれ!!!
そんなオイシイものがこの世にあっていいのあったとは!!
さらに、前に行ったときは気づきませなんだが、紀尾井ホール、ここも、邦楽公演目白押し!!
なんですかこれは!!!
ところせましと浄瑠璃やら邦楽やら何かしらあるではないですか…っ。
国立劇場だけかとおもっていました、邦楽関係や舞踊などの定期演奏や公演に場所を提供しているのは。
なんだか……ばんばんじゃんじゃん公演チケットとってどすどす足を運びたい気が高まって高鳴っている最中、これはとても危険な香りがしまするよ(笑)。わたしに遊べといっているようなもの…。
明日も五公演ほど券を取るため電話やら店頭やらをにぎわせる次第。
いやあ、考えただけでもにんまりです。
遊び倒す
まさに言葉通りだと!
一日目
咲くやこの花芸術祭2014 桐竹勘十郎が語る「大阪が生んだ文楽の魅力」
国立文楽劇場会場三十周年記念 東西名流舞踊鑑賞会
二日目
ふるさと茨木、再発見! 新作狂言「茨木童子2014」
十月花形歌舞伎 GOEMON
三日目
散歩観光 心斎橋商店街~道頓堀~黒門市場~オタロード・でんでんタウン~あべのハルカス・あべのキューズモール
文楽人形と落語のコラボレーション 「落楽」文楽人形内緒噺
「咲くや~」
一時間ほどのお話でしたが二時間近く聴いた気分で。
スイス公演では「日高川~」「義経千本桜」(あ、あれ、そうよね…あれれ)「壺坂観音霊験記」。「壺坂」羨ましい!民間で見たことがあり、猛烈に感動してしまった思い出が…。文楽ではどのようになっているのか、すっごく気になっているのです。
並べられていた人形さんに、不破留寿之太夫の胴が。びっくりしました。ひと月の公演で、あんなに手足剥げるくらいになるなんて。しかもそれがこんな目の前に……!!!
人形は、主遣いだけが大きな割合をしめるのでなく、動き見せ方によって主・左・足遣いと役割の比重が変わるというのはとても新鮮でした。
ほかにも、お話もりもりだくだくさん。もう一人の私が隣にいて、覚え書きしてくれていたら…。
つくづくおもうに…文楽って、ほんとう手の内を惜しげもなくさらしてくださる。七月に通い始めてから、ずっと感じ続けている近さ、敷居や垣根のなさ。芸能、に限らず、何かに属していれば、そこでの輪、囲いって、こちらが勝手に抱くものだけれど、それが、ことごとく、…あけっぴろげ、平坦!!
だから余計、思い入れがつよくなる、のだとあらためて思い至ります。
なんかもう、毎度贅沢な想いさせていただいてるとおもっている。皆さん、どうかんじているんだろう。
「舞踊鑑賞会」
芸を見たりき!!!
有名、人気どころだからなのか…
文楽地方公演で見たばかりの「義経千本桜」道行初音旅の段、ここでも登場! わ~まさか見比べができるとは!!若柳吉蔵さんの忠信が、純な雰囲気で格好いい…。
尾上菊之丞さんの他に、山村友五郎さんという方も文楽、歌舞伎、宝塚の指導、振付をなさっている。また、今月聴きに行く予定の女流義太夫、竹本駒之助さんが、京舞の一流派に残る義太夫物語の義太夫を担当。
さらに山村友五郎さんは、宝塚演出家、かの植田神爾の息子さん!!(びっくり仰天!)
で、芸を見たと申しますのは、友五郎さんのですね、扇捌きが、ですね、手に吸いつくかのように、扇の先までが指先のように、扇が友五郎さんを慕うかのように、もう、淀みなく途切れなく、そよいでそよいで。まるで風。途中から、あまりにもすごすぎて笑いそうになってしまいました。扇だけでなく、友五郎さん自身の舞も、ほんとう吸い寄せられる、とはこのこと。
なんだったのでしょう、あれは…。すごすぎる。
義太夫と舞、というのは初めてで。義太夫といえば、人形浄瑠璃。歌舞伎で義太夫があっても台詞は役者さんがしゃべるし、長唄、清元と同じように、舞い手は舞うのみ、というのが義太夫にあるとはおもってもみませんでした。義太夫は人形浄瑠璃のほぼ専売で、その形態は人形が語らないゆえにで、人が入れば歌舞伎のようになると。
義太夫だけでなく、清元、常磐津、長唄なども含んだものを浄瑠璃という、要はそれらは根が一緒、というのは聞きかじっていましたが、それをここに見たおもいです。なるほどね~!と勉強。
もうひとつ勉強気分だったのが、その舞踊家と文楽、歌舞伎とのかかわり、舞踊に義太夫だったり、長唄などの語り手弾き手を連れてくる(でなければ成立しないから当たり前なのですが)、というのを目の前で見て、知って、芸能の横のつながりを感じたのです。
どうしても、それこそ伝統芸能ほどそれぞれの囲いが強固という思いこみがあって、でも、考えて見れば、それぞれ影響しあって、関わりの深いもの同士なんですもんね。
なんだか、いいなぁ、芸能として頼もしいといいますか、流動する生きた空気があって(伝統芸能、というと、すでに留まっているもの、というおもいこみがあり、実態をまだまだ知らないでいる)、それの一端に与れて、うれしいなぁと、おもう次第でありました。
と、長くなるので、分割します。その一ここまで。
おおいなる雑記
偉大な雑記でなく、雑記はなはだしい雑記の意。
ここ数週間、思い熄まないでいて、誰かにつたえたくてここにしるします。
市川海老蔵と和の世界で、海老蔵さんの平家物語の朗読がありました。それが、契機となって。うっすらと周りで渦巻いていた思考がひとつところにあつまりきたった感があります。
ありありと、目の前に、頭に浮かぶ情景。
なぜなのだろう、ここにはないのに、なぜ、浮かぶのだろう、その時代の細かな装束、本当の地形などは知らないからそのままは想像していない、けれど、情景が光景がうかぶ。
なぜだろう、なぜないのに目の前とこころにあるのだろう。
平家物語の臨場感、人の躍動感にではなく、その気づいたことに、わたしは、涙がにじむ。
ものがたり。
小説や、過去の話、それから、今自分の考えていることも、自分が想像している、という、同等の、同質の、ものがたりである、と最近おもいおよび、でも、そのものがたりと、自分の考えているものがたりは違う、それは何かとかんがえたら、自分に関わってくるかどうか、自分に利害がかかってくる気がするかどうか、だと。無関係におもい描くか、関係性の中でおもい悩むか。
これもふと。人は、何かを生み出す、なにもかもうみだされた中に営みが成り立っている。
ほかのいきものは、有る中で在る。人は、食べ物も、作る、そして多大な多大な部分、を、それはもはや部分ではないけれど、生み出した中に囲まれ生活している。目の前にある紙くずだって、ビニール一枚だって、人が。
本棚を眺めると、小説や着物の本や画集やそれらがたくさん並ばっている。人が考えたこと生み出したことが塊りのごとく此処にある。
胸が詰まる。
何もかもで胸がつまる。
なににだろう。ずっとずっとここにありつづけてきたのに、いまさら、いまさらにきづき、そのきづいたことの大きさに、おおきさに胸がとどかなくて追いつかなくて、そのおおきさが胸を締め付ける。
人って。
論理的な議論も、人との良いとおもうことの意見の相違も、どこにもその正邪の実態はなく、人の頭の中、こころの中にしかない、それでも、それがあたかも空間を共有しているかのように、しっかりと成り立っている。
かんがえてみれば、おどろく。
どこにもないのに、しっかりと、成り立っている。どこにも規則などないのに、ひととのあいだで、しらない呼吸のうちに、ある、と、思い成っている。ことば、こころ。
なんか、もう、そのことが、今、たまらなくたまらないのです。
ないのにある。あってあふれている。
人とその身体や、物、ほかのものものはここにある。生きたり、置かれたり、そこにある。
人がかんがえていることはどこにあるのだろう。
わたしは、なにに、心居竦ませ、ちぢこまらせ、くるしがっているのだろう。
自分も考えている、思っている、おなじように、人もかんがえている、おもっている。どこで、どこに。
なんでわたしは。
つまりわたしは、いつでも、つまるところ、なんていうのでしょう、透けるように、なんということもないように、むねが息澄んだように、いたいのだといつも環ってくる。
ことばを伝える
ことばが届く
言葉が苦しい。何もおもいたくない。
でもこの詰まりづく心胸が、なにか次の言葉をもとめている強力な呼び声であるとおもってる。
だから、見つめて考える。
そして実は私の遊び蔓でもある。自分に没頭するの遊びだからね(結局たのしいのね!)。
お腹すきました(笑)。御飯まだかな~。
しかしまだ胸がわだかまっている。
はやくぱっと鮮明にしてしまいたい!
文楽/文化/着物/本読み/落書きすること
●画の影響・養分●
文楽/江戸川乱歩/宝塚/歌舞伎/日舞/着物/和装/沢田研二/抒情画・挿絵(高畠華宵、小林嘉一、小村雪岱他)/水彩画(永山裕子、醍醐芳晴他)/漫画(由貴香織里、立川めぐみ、竹内直子他)/ネットで出逢う絵描きさん達